第38期第3回研究会「素材と分解のメディア論──『技術と文化のメディア論』(2021年ナカニシヤ出版)から出発して」(理論研究部会)【開催記録】

■日 時:2022年2月13日(日) 午後2時から4時半まで
■方 法:ZOOMを用いたオンライン研究会
■報告者:辻井敦大(立命館大学)、遠藤みゆき(東京都写真美術館)、日高良祐(東京都立大学)
■討論者:土橋臣吾(法政大学)
■司 会:大久保遼(明治学院大学)

■企画趣旨
近年、メディアの物質性(materiality)に焦点を当てる研究が注目を集めている。もちろん、これまでのメディア研究においても物質性は重要な概念だったと言えるだろう。マーシャル・マクルーハンはメディアが伝達する内容ではなく伝達を可能にする形式の物質的な特性に目を向けるよう注意を促した。フリードリヒ・キットラーはコンピュータ文化を規定するハードウェアの物質的な特徴を分析する必要があると論じた。これに対し、近年の物質性への注目は、個々のメディアや装置を構成する様々なモノや素材に対して繊細な分析を加えることで、これまでとは異なる研究領域を開拓しつつある。いわばメディアやメディア文化を、「素材」へと「分解」することによって、分析単位を変え、製造や加工、販売や流通、文化や実践を今までとは異なる文脈に置き直しているのだ。

本研究会では、梅田拓也・近藤和都・新倉貴仁編著『技術と文化のメディア論』(ナカニシヤ出版、2022年)、とりわけ「第Ⅰ部 マテリアル」の論考を出発点として、メディアの物質性について議論を深めたい。とくに、辻井敦大「墓石加工技術と変容と死にまつわる平等性」(第2章)、遠藤みゆき「写真は永遠か――「不朽写真」としての写真陶磁器」(第3章)、日高良祐「プラットフォームをハックする音楽――チップチューンにおけるゲームボーイ」(第5章)を取り上げ、各章の著者からの報告とそれに基づいた議論を行う。議論と通じて、物質性への新たな注目がどのような視点と研究領域を切り拓くか、その可能性を明らかにしたい。「素材と分解」を出発点に、新しいメディア研究の視座やメディア文化の分析手法について議論し、知見を共有する場にできれば幸いである。

【開催記録】
■記録執筆者:大久保遼
■参加者:70名
近年、メディアの物質性(materiality)に焦点を当てる研究が注目を集めている。もちろん、これまでのメディア研究においても物質性は重要な概念だったと言えるだろう。マーシャル・マクルーハンはメディアが伝達する内容ではなく伝達を可能にする形式の物質的な特性に目を向けるよう注意を促した。フリードリヒ・キットラーはコンピュータ文化を規定するハードウェアの物理的な特徴を分析する必要があると論じた。またカルチュラル・スタディーズにおいても、レイモンド・ウィリアムズはcultural materialismを提唱し、ローレンス・グロスバーグはspatial materialismを論じている。『マス・コミュニケーション研究』87号で「メディアの物質性」の特集が組まれているように、メディア研究において物質性に注目することは、それ自体すでに長い系譜と多くの蓄積があると言えるだろう。

ただし、近年の物質性へのあらたな注目は、既存の研究関心と重なる部分がありつつも、これまでとはやや異なる方向性に進んでいるように思える。John Durham Peters (2015)やJussi Parikka (2015)、Nicole Starosielski (2019)といった論者は通常メディアだと考えられてきた装置や媒体、媒介作用を構成する素材や要素(elements)に目を向けることで、これまでとは異なる研究領域を開拓しつつある。いわばメディアやメディア文化を、「素材」へと「分解」することによって、分析単位を変え、媒介性の問題を再考し、生産や流通、文化や実践を今までとは異なる文脈に置き直していると言えよう。こうした視点をとることで、メディア研究やメディア史の記述はいかに変化するだろうか。本研究会では、梅田拓也・近藤和都・新倉貴仁編著『技術と文化のメディア論』(ナカニシヤ出版、2022年)、とりわけ「第Ⅰ部 マテリアル」の論考を出発点として、「素材と分解」の視点から、あらためてメディアの物質性の議論を検討するために企画された。

まず辻井敦大氏は、「墓石加工技術の変容と死にまつわる平等性」(第2章)の議論を出発点に報告を行った。従来の社会学的な研究において、墓は家族・親族関係や意識を現す先祖祭祀のシンボルとして、たとえば「家」から近代家族への変化と墓地の様式との関係が論じられてきた。また死者を記憶するメディアとして墓を捉え、そのモノとしての特性に注目する研究も存在している。これに対し、辻井氏は、墓の素材である「墓石」とその「加工技術」に着目する。そうすると何が分かるだろうか。均一な洋型墓石が立ち並ぶ都市霊園の成立の背景には、1960年代に確立した墓石の加工技術の発展がある。1960年代に国内で人工ダイヤモンドの製造に成功し、工業用のダイヤモンドカッターが普及することで、均一な墓石の大量生産と低価格化が可能になった。また大量生産による国産石材の供給不足を補うために、コンテナ船の空きを埋めるバラスト(底荷)を兼ねて海外から墓石用の石材の輸入が始まる。すなわち霊園の形態の変化の背景には、素材としての石の調達から流通、加工、製造にいたるまでのサプライチェーンの確立と製造のための加工技術の発達(およびその素材としての人工ダイヤモンドの製造)があり、それが墓石の大量生産と墓地経営の合理化、規格化された都市霊園の造成を支えていた。こうした素材の調達や流通、加工の技術は、瑣末なこととして見過ごされがちだが、詳細に検討すると、都市霊園の成立の別の側面を捉えることができる。辻井氏は、今後の研究の方向性として、都市表象研究や伝統文化を対象とした研究へとこうした視点を展開する可能性を指摘した。

次に遠藤みゆき氏は、「写真は永遠か――「不朽写真」としての写真陶磁器」(第3章)を題材に、19世紀に研究・製造され、その後衰退していった「写真陶磁器」という特異なメディアと、その素材である陶磁器に焦点をあてた報告を行った。写真は発明当初、画像の退色や劣化が大きな問題となっており、不確かなイメージを定着する堅牢で腐食に強い素材として陶磁器が選ばれた。実際に、当時の写真館の広告や万国博覧会・内国勧業博覧会の出品目録からも、さまざまな形態の写真陶磁器が製造されていることが確認できる。この時期には写真を定着する素材として、紙だけでなく木材、布地、皮、ガラス、金属などが試みられており、写真が焼き付けられた家具や着物、日用品が製造されていた。遠藤氏によれば、19世紀の多様な「モノとしての写真」のなかでも、とりわけ陶磁器は、イメージを永続的なものにしたいという願望と強く結びついていた。そのことを示すのが、写真骨壷(肖像写真が焼き付けられた骨壷)や陶器写真埋込石碑(写真が焼き付けられた位牌が埋め込まれた墓石)の例である。こうした現在からすると奇妙な写真の形態は、しかし、不確かなイメージを固定し永続させることを望む点では、現在のデジタル写真にまで引き継がれている写真の特徴を共有しているのである。またスマートフォンのカメラによる撮影が主流になった現在でも、あえてフィルムカメラや写ルンです、チェキなどで撮影する実践が根強く残っていることも、写真というメディアの特性が、イメージや複製性だけでなく、モノの性質や定着する素材と強く関わっていることを示していると言えるだろう。

最後に日高良祐氏は、「プラットフォームをハックする音楽――チップチューンにおけるゲームボーイ」(第5章)を起点に、実際にゲームボーイでの「演奏」のパフォーマンスを交えながら報告を行った。チップチューンはゲーム音楽と共通のテイストを持つ音楽であり、特定の音源チップを使って音を鳴らす点にその特徴がある。なかでもゲームボーイは長年同じ音源チップを搭載しており、携帯型のゲーム機であると同時に、世界中で流通した小型のシンセサイザーだと見なすことができる。チップチューンのアーティストたちはゲームボーイをハッキングし、音源チップやソフトウェアに修正を加え、「演奏」のためにハードウェアを物理的に改造する。いわば、ゲームボーイという装置を分解し、音源チップという素材/部品に着目することで、ポピュラー音楽の実践のなかに位置づけ直しているのである。実際に、ゲームボーイで作曲を行うためのソフトや楽曲入りのカートリッジの販売、部品や改造のための製品を提供するWebサイトも用意されており、インターネット普及以前(89年)に発売されたレトロな装置は、インターネット以降のコンピューティング環境と安価な部品の流通、ソフトウェアの開発によって、現代の音楽文化に組み込まれている。ハードウェアとソフトウェアの連関に焦点をあてるプラットフォーム研究の視座をポピュラー音楽研究に導入することで有効な分析が可能になり、さらにハードウェア内部の音源チップという構成要素や、分解と改造の実践に注目することで、ゲーム文化と音楽文化の双方にこれまでとは別の視点からアプローチすることが可能になるのである。

以上、3者の報告を受けて、討論者の土橋臣吾氏からコメントがあった。3者の報告ともに、特定のモノの特徴やその流通を追うことで、今まで見えていなかった連関を浮かび上がらせる点に分析の面白さがあり、メディアやメディア文化を「素材」へ「分解」することで明らかになる事実が具体的に示されていた。それは単に、既存の対象やテーマを別の視点から見ることを可能にするだけでなく、「モノの細部を追うことで、特定の社会なり文化なりの成り立ちが、特定のモノを不可欠の要素として含む形で見えてくることの面白さ」を明らかにしている。今まで見過ごされてきた素材や構成要素に注目することは、メディアやメディア文化を成立させているモノの連関を省略せずに描くことを可能にし、墓石の加工技術や写真陶磁器、ゲームボーイといった個別の対象や領域を超えて重要な視点を提供すると言えるだろう。また土橋氏は、今年度からマス・コミュニケーション学会が「メディア学会」へと名称を変更したことに触れ、今回の研究会で示された方法的な視点の変化は、「マス・コミュニケーション」を支えるモノの連関をあらかじめ固定されたものと前提とした上で、そのコミュニケーションを分析することが可能だった時代の終わりを示しているのではないか、との問題提起を行った。それはつまり、「次々に登場する新しいデバイス、サービス、インターフェイス、アルゴリズム等々を不可欠の一部として組み込む新しい連関の生成と消滅が繰り返される時代」の始まりを意味している。素材と分解のメディア論の視点は、こうした時代においてその重要性を増しているのである。

続いて3者の報告とコメントを受けて、参加者を含めた討議が行われた。個別の報告内容に対する確認や質問を超えて課題となったのは、既存の研究との差異、そして「メディアの物質性」の捉え方の問題であったように思う。素材や構成要素に注目してメディア研究やメディア史を再考することはたしかにあらたな視点をもたらす一方、その記述はロジスティクスやサプライチェーンに注目する経営史、あるいは科学史や技術史により近づいていく側面がある。その場合、メディア研究やメディア史の固有性や独自の面白さをいかなる水準で設定できるのか。また石材の加工技術、写真陶磁器、ゲームボーイの音源チップといった多様な素材や物質性を並置することで見える共通点やあらたな発想がある一方、そうした個別の構成要素を超えて「メディアの物質性」の問い直しという理論的な水準で見た場合、既存の研究とどのように異なり、何が新しいと言いうるかについては、より詳細な検討が必要である。今回取り上げられた視点やメディアの物質性の議論を、たとえばコミックスや模型といった対象、あるいはインフラやデジタルメディアの物質性の議論へと架橋するならば、いかなる展開がありうるだろうか。こうした課題も含め、今後のメディア研究の方向性を考える上でも有意義な研究会となったと言えるだろう。