▪️主 催:音楽/テクノロジー/メディア研究会
▪️日 時:2026年4月18日 13:00-15:00
▪️開催形式:ハイフレックス
東京芸術大学 千住校地 第1講義室
▪️登 壇 者:
日高良祐(京都女子大学)
谷口文和(京都精華大学)
吉光正絵(長崎県立大学)
毛利嘉孝(東京藝術大学)
加藤夢生(東京大学)
▪️司 会 者:日高良祐(京都女子大学)
▪️参加人数: 会場27名+オンライン54名
▪️ 開催記録:
本研究会は、日本メディア学会(JAMS)の公募プロジェクト「音楽/テクノロジー/メディア研究会」のキックオフとして、メディア研究における「音・音楽」の不在を問い直す目的で実施された。とりわけ第一回の今回は、後続の研究会のための問題提起の場となった。
はじめに司会者の日高良祐氏(京都女子大学)から本研究会の趣旨説明が行われ、続いて5名の登壇者による各氏の問題意識の説明、そして来場者との質疑応答がなされた。
趣旨説明では、司会の日高氏が代表して当研究会の問題意識を説明した。音や音楽を通じてさまざまなテクノロジーが社会化、換言すると「メディア化」する過程の契機になっているはずだが、現在のメディア研究が映像や画像、文書の研究に偏っており、音や音楽へのフォーカスが相対的に弱い現状を指摘した。そうした中、本プロジェクトの目的は、音や音楽をメディア研究の主要な対象として位置づけ直し、音楽テクノロジーが社会化・メディア化する過程を多角的に分析することにある。また、メディア研究とポピュラー音楽研究との架橋を実践的な意義として掲げ、今年度中に計7回の研究会を開催する計画が示された。ここに登壇した5名はそれぞれ、JAMSと日本ポピュラー音楽学会(JASPM)のいずれにも在籍しており、各人の問題意識に呼応して、以後研究会を持ち回りで主催するようである。今回の研究会では、各人の「お当番回」がどのようなものになるのか、その見通しを我々参加者へ説明してくれた。
5名の登壇者は、フォーマット研究(日高氏)、DTMをめぐる「聴覚的リテラシ」(谷口氏)、音楽ファンダムの諸実践(吉光氏)、非西洋的フューチャリズム(毛利氏)、生成AIとサイバネティクス(加藤氏)といった多角的な視座から、音楽がいかにテクノロジーをメディア化し、社会を枠付けているかを論じた。以下、各登壇者の問題提起をまとめる。
日高氏は、近年のメディア研究の潮流である「フォーマット研究(Format Studies)」の重要性を提起した。これはメディア技術を構成するルールやプロトコル(水準)に焦点を当てる手法である。
日高氏からは「フォーマット研究」を軸とした事例報告が行われた。日高氏は、ジョナサン・スターンが提唱したフォーマット理論を起点としつつ、1990年代から2000年代の日本におけるミニディスク(MD)が、いかに「デジタル化」という概念を社会的に枠付けたかを分析する構想を述べた。さらに、コンパクトディスク(CD)の規格策定における技術開発のプロセスにも目を向け、これまでメディア研究において看過されがちだったミクロな技術的枠組みである「フォーマット」がもたらす政治的・社会的な作用を明らかにすることの重要性を強調した。
続いて、谷口文和氏(京都精華大学)の報告では、「楽器を弾く」や「楽譜を読む」といった種々の音楽体験を「テクノロジー体験」として定義する視座が提示された。谷口氏は、科学技術社会論(STS)における技術の社会構成主義を援用し、1990年代のデスクトップミュージック(DTM)環境を事例に挙げた。具体的には、MIDI規格におけるメーカー間の互換性をめぐるジレンマを分析し、制約の中で最大限の表現を模索したユーザーの実践を「聴覚的なメディアリテラシー」として抽出することを提案した。これは、音楽的才能や規範意識をテクノロジーに媒介されたリテラシーとして捉え直すことで、音楽を神秘化せず、メディア研究の対象として相対化する試みである。
吉光氏の報告では、メディア社会学の観点からプラットフォーム化におけるファンダムの能動的な役割が論じられた。吉光氏は、現代のファンを単なる消費者としてではなく、コンテンツの拡散、翻訳、アルゴリズムへの組織的な働きかけを通じて、音楽循環を支える社会的基盤と措定する。ニールセンの調査報告では、ストリーミング主流の米国市場でCD売上が増加している現象が紹介され、CDが「愛情の指標」としてのファングッズへと再編成されている実態が浮き彫りにされた。Spotify等のプラットフォーム側も「スーパーファン」の影響力を重視し始めており、技術的基盤とファンの自発的な活動の重なり合いが新たな流行を構築している現状が指摘された。
休憩なしで続いた後半部では、毛利氏が、マーク・フィッシャーの「ゆっくりとキャンセルされる未来」を補助線に、加速するテクノロジーと停滞する音楽的未来像の関係について報告した。毛利氏の指摘によれば、とりわけ1980年代以来、音楽の発展は「ゆっくり止まっている」。我々がいまだに「未来的」として想起するテクノやドラムンベースの「スペーシー」なサウンドは、実際には20〜30年も前の形式の変奏に過ぎず、なんら新しいものではない。マイルス・デイヴィスが1960年頃のビバップからモダンジャズを経て、1970年の『ビッチェズ・ブリュー』での電化ジャズへと至る10年間で成し遂げた急激な変容と比較すれば、現代における「時間の停滞」はより鮮明である、という。
加えて、音響テクノロジーそのものは巨大ライブの音響システムやAIアンビエントのように劇的な進化を遂げている一方で、高周波による若者の排除やドローン技術といった「監視」や軍事的な「選別」の装置として音が転用される政治的側面にも警鐘を鳴らした。さらに、西洋中心主義的な未来像に代わるアフロフューチャリズムやシノフューチャリズムといった非西洋圏の多様なテクノロジー実践の重要性を説き、人種やジェンダーを含めた未来の音楽の担い手を問う視点を提示した。
個別報告の最後を締めくくった加藤夢生氏は、音楽制作と生成AIの交錯を「サイバネティクス的循環」として捉え直す野心的な視座を提示した。本報告の主眼は、従来の音楽研究は「生産・流通・消費」の観点で検討されてきたが、AIを用いた音楽を特に「生産(制作)」の観点で議論することを主張した。その際、批判的楽器学を補助線にしながら、生成AIを一つの楽器として分析する有効性を問う。
ここで鍵となる「サイバネティクス」とは、環境への適応(他律性)と自己制御(自律性)の動的な均衡を問うアナロジーとして用いられる。加藤氏によれば、AIは理解不能な「エイリアン(テクノロジー)」としての側面と、過去の人間のデータの反映である「人間(メディア)」としての側面を併せ持つ。この二面性に対し、人間がいかに適応し、あるいは自律的なフィードバックを返すのかという相互影響のプロセスを、加藤氏は「サイバネティクス的循環」として表現する。AI制作によって生じるノイズや不透明なフィードバックループをあえてメディア研究の回路に配置し直すことで、既存のメディア論を揺さぶり、新たな観点を創出する意義を強調した。
報告後の全体討論では、各人が想定する「音楽」という言葉のマジックワード性が浮き彫りとなった。谷口氏が指摘した通り、この定義の不一致こそが「メディア研究的なシチュエーション」そのものであるといえる。多岐にわたる問題意識をどうまとめるべきか、といった嬉しい悩み?も漏れ出たほどだ。
会場からは、メディア技術の解明が音楽文化の定義を解き明かす鍵になるという期待や、伝統的な「音楽学」との接続をどう考えるか、といった意見があった。また、本研究会のアウトプットの形態として、論文・書籍に留まるのではなく、展覧会や「フェスティバル」といった体験的な形式の可能性も議論された。真面目な研究会で発される「フェス」という単語には会場から笑いも起きたが、これは検討に値する論点である。
「音/音楽」とは、研究者のみならず大衆に開かれた、いやむしろ大衆自身による実践の集積である。それらを事後的に記述する研究者が、その成果を専門家特有の閉じたリテラシの中にのみ封じ込めることは、少しもったいないことではないだろうか。「フェス」が最適な形かどうかはさておき、研究の方法や成果の提示をいかに実践の場へ差し戻すかという思索は、極めて誠実な応答といえるだろう。
最後に日高氏から、6月のJAMS春季大会(武蔵大学)にて飯田豊氏を招いて開催されるワークショップの展望が語られ、研究会は締めくくられた。
この種の研究会は、重要な論点を抱えながらも、さまざまな事情のもとで継続が叶わず、議論が尽くされないまま幕を閉じることが少なくない。しかしこの「音楽/テクノロジー/メディア研究会」は、(事後的に0回がナンバリングされた昨年11月『メディウム』合評会を含めると)実に計8回にわたる継続開催の予定だ。この持続性は特筆に値する。本プロジェクトを通じた音楽の「脱神秘化」という試みは、メディア研究に新たな事例をもたらすのみならず、なんらかの形で音/音楽にかかわる我々の価値観を根底から変容させる可能性を孕んでいる。その変容が実現されるかどうか、そして今回の研究会が記念碑的に語られる日が来るかどうかは、まだわからない。ただ、ここで示された問題意識は射程が広く、共鳴する者は決して少なくないはずだ。メディア研究、あるいは音/音楽をめぐる研究に参画するものとして、後続の研究会を最後まで見届けてゆく必要があるだろう。