第1回 研究会「音、身体、メディア ——『メディウム』第5号〈ジョナサン・スターン〉特集合評会」【開催記録】

▪️主催

音楽/テクノロジー/メディア研究会(日本メディア学会公募プロジェクト)、『メディウム』編集委員会共催

▪️日時:2025年11月2日(日)15:00-17:00

▪️開催形式:同志社女子大学今出川キャンパス楽真館+ハイフレックス

▪️登壇者:近藤和都(立命館大学)、藤下由香里(京都精華大学等)

▪️討論者:日高 良祐(京都女子大学) 梅田 拓也(同志社女子大学)

▪️司会者:今関 裕太(江戸川大学)

▪️参加人数:会場9名+オンライン31名

▪️開催記録

本研究会では、はじめに編集委員会の梅田拓也氏、日高良祐氏から企画の趣旨説明と『メディウム』第5号で特集が行われたジョナサン・スターン(Jonathan Sterne、1970-2025)の業績の紹介が行われたのち、近藤和都氏から障害メディア研究を視座としてスターンの議論を振り返る報告が、藤下由香里氏からスターンの議論を踏まえCDをフォーマットとして捉える報告が行われた。休憩を挟み編集委員会から報告への応答が行われたのち、対面・オンラインの参加者を交えた質疑応答が行われた。

 近藤氏の報告では、まず「フォーマット」に関する研究者としてのイメージが強いスターンが、特集号において詳細な書評が掲載された『減退した能力――インペアメントの政治的現象学(Diminished Faculties: A Political Phenomenology of Impairment)』(2021)やネタ・アレクサンダー(Neta Alexander)やマーラ・ミルズ(Mara Mills)との共著論文など、障害メディア研究においても重要な位置づけを持っていることが紹介された。さらに、これらの研究において問題とされる正常/異常の境界の形成は、メディアの社会的生成と人々の実践の関係を問題にしたスターンの当初の議論にも共通していることが指摘された。近藤氏によると、このような「正常性」の形成に関する注目は障害メディア研究の主要な問題関心であり、障害が必ずしも技術によって埋め合わせられる「欠如」ではなく、むしろ技術の開発や実装に関する前提であることが多くの研究によって指摘されているという。この点について近藤氏の報告では、障害をメディアの理解のための土台=インフラとして捉える「インフラとしての障害」という見方を提起し、従来のメディア理論においてしばしば不可視のものとされてきた障害を可視化し、メディア研究の再検討を行うことが提案された。

 続いて藤下氏の報告では、特集に掲載された論考を踏まえつつ、CDという具体的なメディアに焦点を当てた報告が行われた。はじめに、しばしばCDというメディアがJ-POPの誕生・衰退と結びついた音楽の大量生産・消費のメディアとして論じられてきたのに対して、藤下氏のこれまでの研究では同人音楽文化における流通手段としての側面に目を向けることで、使用の容易さを前提とした対人コミュニケーションの媒介というCDの新たな側面を明らかにしてきたことが紹介された。次に、特集号に翻訳が掲載された、「音楽産業は存在しない」と題した論考において、スターンが「音楽産業」をコンテンツ産業だけでなく、例えばコンテナ海運業や不動産業などを含む複数の諸産業を指すものとして再定義したことを踏まえ、狭義の「音楽産業」と関連において論じられてきた点がCDにも共通し、今後の研究において、流通や廃棄、メディアの物質性も射程に入れた領域横断的なアプローチが必要とされることが指摘された。さらに、同じく論集に翻訳が掲載された「連携メディアとしてのフォーマット」において、アクセル・フォルマー(Axel Volmar)がスターンの延長上に展開したフォーマットに関する議論を受けて、コンパクトカセットとCDの連続性にみられるような、持ち運びやすいフォーマットという特徴に目を向けることで、同人音楽文化における普及の背景に即売会における持ち運びやすさや手渡しのしやすさに関する検討を進める可能性が提起された。

 休憩を挟んだ後、梅田氏、日高氏から報告に対する応答が行われた。梅田氏からは、キットラーが技術を障害の埋め合わせとして捉えたというスターンによる批判が、キットラーの本来の議論とは異なり、むしろキットラーの障害に対する立場はスターンと近いという指摘が行われたほか、CDのフォーマットについて考えるうえで、編集性、保管性、処分可能性といった側面が重要になるのではないかというコメントが行われた。また、近藤氏・藤下氏がスターンの議論が持っている政治的な側面をどのように捉えるかという質問が行われた。日高氏からは、スターンをユーザー研究という観点からどのように理解できるかという論点が提起された。また、日高氏はスターンの提起したフォーマットに関する研究が、フォルマーやマレク・ヤンコビッチ(Marek Jancovic)といった研究者によって引き継がれ、「フォーマット研究(format studies)」として展開している状況を紹介しつつ、聴覚に関するフォーマットの研究が少なく、視覚と聴覚に関するフォーマットの研究に分断が存在することを指摘し、その上で聴覚に注目することの意義をどこに見出すことができるのか、という問題を提起した。編集部のコメントに対して、近藤氏から、スターンの批判がキットラーに限らずポール・ヴィリリオ(Paul Virilio)やマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)などの論者が、硬直した障害者像を前提とした語用を自らの理論に含めてしまっていることに対するものであるという応答が行われた。また、近藤氏は、インフラとしての障害という語については検討が必要であると断りつつ、「障害メディア研究」という個別の領域に限らず、メディア研究全体において「障害」を所与の前提と捉えることの重要性をあぶり出すことが意図にあったことと述べた。藤下氏からは、CD-RやDTMといった音楽制作に関する環境の変化も含めてCDのフォーマットについて考える余地が存在し、処分可能性についても、近年注目が集まるエコミュージコロジーといった領域との関連も含め、今後の議論の必要が存在するという応答が行われた。また、藤下氏は、音楽と映像に関するフォーマットの分断に関して、CD-Rという汎用メディアへの注目が一つのヒントになるのではないかと指摘した。

 さらにフロアも交えた議論では、視覚と聴覚について、それぞれの標準と差異について問い直すことの重要性が指摘されたほか、テクノロジーの「可能態」に関する議論をどのように扱うことができるかという観点があげられ、それらの視点がユッシ・パリッカ(Jussi Parikka)などによるメディア考古学やデッドメディアといった概念や研究に接近していることが指摘された。この点について近藤氏は、映画研究において「見ること」の標準化されていない側面が重視されてきたことを述べ、特に戦前・戦中における「真正な」視覚経験の構成に関する研究が行われつつあることを紹介した。さらに近藤氏は、スタンダード(標準)には大企業によってトップダウンに決められる側面があることに対して、フォーマットは標準的なものに限らない点が概念としての利点となりうる可能性を指摘した。これに関して日高氏から、確かに複数のフォーマットとスタンダードという図式がありつつも、スターンやフォルマーをはじめ、フォーマット研究は規格における政治性の問題について注目する側面が強いことを補足した。また、梅田氏からは、正常/異常という概念対自体もまたを特定の実践を基盤においた構築的な側面を持ち、政治的実践それ自体をメディア研究の枠組みに入れるというラディカルな試みの可能性が提案された。さらにフロアからは、「フォーマット」という語が一般に指すデータ形式とスターンの論じる「フォーマット」の関係性ついて問う質問が行われ、日高氏から、スターンの議論では紙の判型なども含む、より広いレベルでフォーマットを捉えていることを述べつつ、一方でフォーマット研究が活性化する背景にはデジタル・メディアを捉えるうえでフォーマットという見方がもたらすに利得が大きいことが影響しているのではないか、という回答が行われた。また、メディア研究に内在する障害を相対化する点で、色盲当事者である馬場靖人氏による『〈色盲〉の近代』が重要ではないかという提案が行われたほか、CDとDVDというフォーマットと購買空間の関係もメディア間の連携を考えるうえでも重要ではないかという論点が近藤氏から提起され、さらに梅田氏がCDについてCDDBの重要性を提起し、それに対して日高氏からスターンの弟子筋であるジェレミー・モリス(Jeremy Morris)によってCDDBの研究が行われていることが紹介された。特集号や本研究会で展開された議論をはじめ、2025年に早逝したスターンの議論が様々な領域へ訴求力を持つものであることを改めて感じさせると同時に、スターンが提起した問題にどのように対峙し、展開していくかいう点に関して、多くの示唆と今後の展望を感じさせる研究会だった。

▪️記録作成者:中村将武(東京大学大学院)