2022年 秋季大会ワークショップ開催記録

 2022年秋季大会で開催されましたワークショップの開催記録を掲載いたします(2022年12月29日)。

ワークショップ1
ジェンダー視点から確認するメディアの「現在地」:
テレビ報道を中心に

  • 司会者:坪井健人(日本放送協会)
  • 問題提起者:林香里(東京大学大学院)
  • 討論者:小西美穂(関西学院大学)
  • 〔企画: ジェンダー研究部会〕

今年発足したジェンダー研究部会で初めて行うワークショップ(以下、WS)は、「ジェンダー視点からメディアの現在地を確認する」事をテーマとした。これは部会の実務家メンバー全員が、コンテンツ制作や労働環境において、”急速なジェンダー的変化”を感じていた為である。従来から研究者はテレビメディアのジェンダーに関する構造的な課題を指摘してきた。これに対して、まさに今、現場で起きている変化を実務家とすり合わせる事で、メディア学会でジェンダーを議論する意義を効果的に訴求できると考えたのだ。

WSではまず、問題提起者である東京大学の林香里が、今年NHK放送文化研究所が発表したコーディング分析による大規模調査「テレビのジェンダーバランス」などの量的データを示しながら、「テレビのコンテンツや産業構造において、現在もなおジェンダー的に大きな偏りがある事」、そして、近年、「メディアで働く女性たちが連帯して異議申し立てをしはじめたこと」を指摘した。その上で「デジタルメディアの隆盛を受けて、 “テレビの旧態依然とした構造”が社会と乖離しテレビ報道の信頼を下げる可能性」も示唆した。

こうした林の問題提起に対して、討論者である関西学院大学の小西美穂はまず「テレビの旧態依然とした構造が“ジェンダー役割の再生産を促す懸念がある事”」を指摘。その上で、今回のような研究が今後増える事で、例えばメディアの効果研究分野などの発展を促して、よりインパクトのあるメディアとジェンダーの研究ができる可能性を示唆した。

WSの中盤では、テレビに“旧態依然としたジェンダー構造”がある一方で、昨今のジェンダー報道が質的・量的にポジティブな変化を起こしている事例が示された。小西は、そのターニングポイントとして「“東京五輪の森発言”があり、当時の国際的なメディア環境が外圧として機能した結果、規範のカスケードを起こした」と指摘した。こうした変化の背景には複合的な要因があり、例えば“職場の男女比の変化”や“ジェンダー報道の知見の蓄積”等の論点も挙げられたが、今回は特に「デジタル化」について重点的な議論がなされた。例えば「ジェンダー企画がページビューや視聴率が見込めると分かってきた事」や「デジタルでは字数や企画枠などの制約が少ない為、企画が通りやすい事」等の“経済要因“が現場に影響を与えている点が議論された。林はこうしたデジタルにおける変化を評価する一方、一部の実態は商業主義に収束する危惧がある事を指摘した。これに対して、「安易なジェンダー企画では、ページビューや視聴率はとれない」といった反論も出たが、放送制度や組織構造などの構造が抜本的に変わらない限りは、結果的にテレビ報道は信頼を失っていく可能性がある事が示唆された。

最後にWSでは“こうした旧態依然の構造”を変える方法論についても議論した。林も小西も従来の“客観性のジャーナリズム”だけでニュースを制作する事に問題があり、ジェンダーの議論とも深い関わりのある“ケアのジャーナリズム”の概念を導入して、 “従来のニュース価値をずらす”事で、テレビ報道が再び信頼性を取り戻せる可能性がある事を議論した。WSは、参加者50人を超え、「研究と実務の交差点」として多岐にわたる論点や豊富な事例が行きかう活発な場となった。この熱が今後さらなる成果や発信に繋がり、メディア研究にもメディアの現場にも、ジェンダーの視点がより組み込まれていく事を期待したい。

(記録:坪井健人 日本放送協会)

ワークショップ2
「没入的囲い込み」日本のヴァーチャル・リアリティを考える

  • 司会者:毛利嘉孝(東京藝術大学)
  • 問題提起者:Paul Roquet/ポール・ロケ(MIT/マサチューセッツ工科大学)
  • 参加者数:31名
  • 執筆担当者:光岡寿郎

概要:

 今回、理論研究部会では、2022年5月に『没入的囲い込み:日本におけるヴァーチャル・リアリティ(The Immersive Enclosure: Virtual Reality in Japan)』(Columbia University Press)を上梓したマサチューセッツ工科大学のポール・ロケ氏を迎えて、日本におけるヴァーチャル・リアリティの来し方、そして行く末を検討するワークショップを実施した。

冒頭では、毛利会員から本ワークショップの主旨が説明された。なかでも、ロケ氏の議論がVRという対象を扱った日本研究でありながら、同時にある種の批判理論としての性質を持ちうること、加えて学会名が「メディア学会」へと改称されたなか、メディアという概念の輪郭を問い直すきっかけとしての有効性について言及がなされた。

そのうえで、ロケ氏は上述の著書に依拠しながら、日本におけるVRの展開をその背景となるVRに向けられたSF的想像力、及び技術産業史としてのVRという二つの文脈が交差する地点に位置付けて説得的に論じていた。とりわけ、重要な視点として提起されていたのは以下の三点だろう。

まず、VRを使用することの不気味さ、いわば「没入的不安(immersive anxiety)」とでも呼べる感覚だ。この箇所では、日本の小説、アニメーションといったSF作品が取り上げられたが、これらの作品のなかでは、ヘッドマウントディスプレイを通してVRに没入することで、自身の(身体)感覚をコントロールされる、もしくは自身の知覚をディバイスに委ねざるを得ないことへの不安が描かれている。それはすなわち、ディバイスを生産するメディア産業に知覚をコントロールされることへの不安であり、その背景となる、現在のVR技術をめぐるアメリカ、中国、日本のプラットフォーム間の競争に対する不安へもつながっていく。

次に紹介されたのが、労働力の欠如を埋め合わせるためのVRを用いたテレワークという近年の動向だ。具体的には、VRを通して遠隔操作が可能になったコンビニエンスストアのロボットのような事例である。VR技術が浸透することで、労働者が存在する物理的な場所や年齢的、身体的なハンディキャップといった制限は低減され、いつでも、どこでも、誰でも働くことができるユートピア的な未来が繰り返し語られる。ただし、このようなVRの利用は少子高齢化からくる労働不足の部分的な解消にしかつながらない。むしろ、こうした利用もまた、VRを運用するプラットフォームに私たちの知覚情報を集積していくと同時に、VRというインターフェイスを通して、私たちはいつでも置換可能な匿名の労働者へと変容するというリスクを抱え込んでいる。

最後に触れられたのが、VRが男性性を帯びたテクノロジーとして日本社会に根付きつつある点だ。日本のVRを用いたサービスやゲームにおいては、そのコンテンツ、プロモーションにおいて頻繁に美少女のヴィジュアルが採用される。この背景には、そもそもVRを含めた情報技術を支えるエンジニア層が圧倒的に男性に偏っていること。加えて、20世紀後半以降の日本のサブ(オタク)カルチャー的なコンテンツを生み出し、消費してきたのもまた男性が中心であったことがある。

発表後には活発な質疑が行われたが、なかでも以下の二点は会場全体で共有された重要な論点だったと考えらえる。ロケ氏はVRを中心に議論を展開していたが、今後の複合現実の発展を含め、長期的にいかなる変化が想定されうるのかという点。そして、単純に情報の送受信を行う機器ではなく、私たちの知覚を支える環境であるVRのような対象をあえて「メディア」として呼ぶ意味がどこにあるのかといった点である。そのうえで、ここでの議論を次回は対面でロケ氏を迎えた機会に続けることを約して散会した。

ワークショップ3
デバイス面からみたメディア利用の実態
~テレビを見るとはどういうことか? 動画視聴の環境変化の中で~

  • 司会者:佐藤友紀(日本民間放送連盟)
  • 問題提起者:舟越雅(NHK放送文化研究所)
  • 討論者:古川柳子(明治学院大学)
  • 参加者数:34名
  • 執筆担当者:平田明裕(放送研究部会)

ワークショップの概要:

 本ワークショップは、テレビのみならずデバイスを横断したメディア利用の実態や、動画を視聴する際のリアルタイム性などといった側面についての考察を通じて、背景となる意識やテレビの今後の展開を議論することを目的として開催された。

 ワークショップでは、大きく前半後半に分けて、前半では、まず舟越会員から、NHK放送文化研究所が2021年10月に実施した「メディア利用の生活時間調査」(調査相手:全国10歳以上4,800人[住民基本台帳から層化無作為2段抽出]、有効数:2,407人)のデータをもとに、「テレビ画面」「スマートフォン・携帯」「PC・タブレット」のデバイス別の利用概況や、3デバイスの個別の行動やネット動画のデバイス別利用状況を分析した結果が示された。テレビ画面の利用は高年層による放送のリアルタイム視聴に支えられている部分が大きい一方で、若年層では、リアルタイム以外のネット動画やゲームなどでテレビ画面が使われていることが報告された。また、スマホ携帯は、SNS、動画、ゲームなど、1つの行動のみに偏って利用されておらず、朝から夜までの生活シーンに深く浸透していていることも示された。さらに、ネット経由の動画であっても、デバイスによって利用のされ方や視聴理由に違いがあることも報告された。

 後半では、「ながら」「専念」利用の状況やネット動画のライブ配信利用者の状況について結果が示された。テレビのリアルタイムは「ながら」「専念」いずれの利用もみられるが、スマホ携帯はどちらかというと「ながら」寄りの行動が多い。テレビとの組み合わせは食事や家事などのほか、コミュニケーション関連の項目も多いことが報告された。また、テレビのリアルタイムとスマホのSNSの組み合わせが、女性若中年層を中心に活発に行われていることも示された。

 討論者の古川会員やフロアを交えた議論では、テレビを見るとは受像機の画面で見ることなのか、テレビコンテンツをネット経由で見ることなのか、テレビを見るということ自体が曖昧になっていることなどが論点となり、テレビ視聴の実態を捉える調査の難しさなどにも議論が及んだ。また、大学生の行動においても、テレビとSNSの相性が良いことが指摘され、スマホがいつも手元にあるという前提で、メディア行動を考えていくことが重要であるといった意見もだされた。さらに、デバイスとの距離感について、テレビは遠く、スマホは手元にあり近いので、「ながら」視聴といった行動は、デバイスの違いにより、感覚が異なってくるのではという問いに対し、単に費やす時間量だけでなく、どちらに集中しているのか熱量的なものを計測することが調査をする上での課題となるといった意見もだされた。

動画視聴の環境が変化する中で、テレビを見るということをどのように定義するのか、また、それを調査でどう捉えていくのかなど、テレビを見るということが揺らぎ始めていることを改めて気づかされるワークショップとなった。

ワークショップ4
FM ひらかたショックを超えて
―コミュニティ・メディア・リテラシーの確立に向けた市民性の検討―

  • 司会者: 松浦さと子(龍谷大学)
  • 問題提起者:井関悟((株)エフエムあやべ) (JCBA日本コミュニティ放送連盟副代表理事)
    討論者:北郷裕美(大正大学)
  • 参加者数:18名
    執筆担当者:松浦さと子


大阪府枚方市が1995年の阪神淡路大震災を契機に災害時の情報伝達のために立ちあげ、資金投入を続けてきたコミュニティ放送局「エフエムひらかた」。しかし2022年2月末、枚方市は若者のラジオ離れを根拠に資金を断ち、同局は閉局解散となった。自治体が立ち上げるコミュニティFM局は全体の約半数、とくに阪神淡路大震災後に近畿圏で多く、独立セクター非営利が前提の世界のコミュニティラジオから見ると日本独特のものである。議会の議論を経たとはいえ枚方での閉局の衝撃は大きく、自治体からの収入に頼るコミュニティFM(以後、CFM)は今後の経営の持続可能性が大いに懸念されたのである。都市型のエフエム枚方はCFMのなかでは大型で、小さな資本金のCFMやこれから開局を検討している地域では、この「枚方ショック」に改めてCFMの立ち位置を再考すべき課題を突き付けられたのである。リスナーである住民が継続を訴える運動はなぜ広がらなかったのか、地域でCFMは本当に必要とされているのか、インターネットでラジオは凌駕されてしまうのかが新たに問い直される

多くのメディアと併存する都市部でのCFM運営の困難に比して、さらに深刻な若者離れも懸念される中山間部から、日本最大の行政資本比率6割のエフエムあやべ(愛称・いかる)を運営する問題提起者の井関氏は今後、CFMは漫然とラジオを運営しているだけでは継続しないと、地元「あやべ市民新聞社」と合同で世論調査を選挙のある年に、4年おきに7回も行ってきた経験から報告した。綾部市は京都府中丹地域で人口30000人、周辺の中山間地では若者が離村し、全体の高齢化率は38.7パーセントと高い。 

2022年調査では、10代の若者と高齢者がともにCFMに望んでいることが地元「ニュース」「地域の取材番組」であると判明し、さっそく「あやべ街角ニュース」を毎日2本づつ配信している。わずか8人の職員ながら日常業務と並行しかなりのハイペースだ。さらに映像配信、イベント記録、移住民のケア、観光案内等々、業務は増え続けている。創設の背景や情熱を共有できた行政職員が人事異動や定年で不在となることでCFM維持は持続されるのかも懸念される。

過疎地域を抱える自治体の与野党との信頼関係の維持に努める一方でジャーナリズムが担えるのかの懸念が会場から出るも、「ジャーナリズムは批判一色ではなく、人々へのケアの要素を含め、まちの日常を住民に寄り添いながら伝える役割は地道だが大切なことなのではないか」と言明する井関氏は、対立軸の少ない綾部市の地域性をあげながら、コミュニティジャナーリズムの在り方も問い直そうとする。

会場には被災地に入ったCFM研究者も多く「発災直後よりもその後の復興のための住民のつながり形成にCFMは期待されることが多い」という認識のもとで、第三セクターである限り「防災」のウエイトが高いことの両義性も問われた。

討論者は「CFMの放送以外の仕事を住民に伝える意味」「情報を生産し続ける意義」「ゆるやかに変化するまちの状況を常に見守る」「議論の場づくりの可能性」「まちづくり組織としてのCFM」などの参加者から出たキーワードを挙げ、第三セクターで支える音声媒体の価値を伝え続けたいと締めくくった。最後に問題提起者からは、しがらみのないIターン移住者の新鮮な見方を取り入れながら励んでゆきたいとのコメントをいただいた。そこでの住民のCFMと向き合うリテラシーを今後も注目し続けてゆきたい。

ワークショップ5
沖縄と朝鮮戦争:米国統治下のメディア空間

  • 司会者:崔銀姫(佛教大学)
  • 問題提起者:吉本秀子(山口県立大学)
  • 討論者:南基正(ソウル大学)
  • 討論者:多田治(一橋大学大学院)
  • 〔企画: 崔銀姫会員〕

参加者数:17 名

執筆担当者:崔銀姫(佛教大学)

◉概要
今年(2022 年)沖縄は本土復帰後 50 周年を迎えた。2020 年は朝鮮戦争勃発から 70 周年にあたる年であった。来年は朝鮮戦争の休戦協定締結から 70 周年である。しかしながら、 朝鮮戦争が休戦から次の段階に移行する見通しは立っていない。一方で、今年、日韓中の研 究者たちによる国際共同研究の成果の一つとして、『東アジアと朝鮮戦争七〇年:メディア・ 思想・日本』(崔銀姫編著、明石書店、2022)が刊行された。こうした「過去」と連続/断絶 する現状を踏まえながら、ワークショップ 5 は、上記の著作に参加された執筆者が議論を 継承しつつ、沖縄からみた「朝鮮戦争」を再考するものであった。

とはいえ言うまでもなく、「沖縄と朝鮮戦争」というワークショップ 5 のタイトルは大き いテーマで、不馴れのテーマでもある。しかしながら裏を返せば、「沖縄」と「朝鮮戦争」 の組み合わせによって、「なぜ沖縄と朝鮮戦争なのか」「先行研究においてこれまで見逃して きたこととは何か」「ここからの発見はどういったものであって、また、いかなる今後の展 開が期待できるのか」などなどを注意深く見つめなおし、捉えなおすことが欠かせないと考えた。

進行は、「 沖縄と朝鮮戦争」をめぐって、各パネラーから政治学や国際関係論、 カルチ ュラルスタディーズで積み重ねた議論を報告・提示し、その後、参加者からの発言を求めつ つディスカッションを行い、さらなる研究の展開の可能性を検討した。具体的にはまず問題 提起者として吉本氏が、朝鮮戦争期における沖縄の新聞報道(『うるま新報』)と占領統治者 であった米国の公文書を手がかりに、1)日本と切り離された沖縄のメディア空間が朝鮮戦 争のイメージをどのように伝達していたか、2)さらに、朝鮮戦争期における沖縄の経験がそ の後の東アジアにおける沖縄イメージの形成にどのような意味を持ったのかという問題設 定で報告された。討論者の南氏は、「朝鮮戦争下の沖縄における冷戦と停戦の重畳」という テーマで、朝鮮戦争の中の沖縄の、「後方の前哨」や「太平洋のジブラルタル」「朝鮮特需と基地経済」「基地防衛の任務」といった特性を取り上げながら、グローバルな冷戦終焉にも 関わらず終わらない東アジアの「冷戦」という状況における問題点をコメントされた。もう 一人の討論者の多田氏は、米国沖縄統治下の非軍事の要素に特に注目しつつ、こうした非軍 事の要素は経済支援と情報教育を民事活動の二本柱にしながら軍事占領を修辞で包み隠す ことで、ブルデュー流にいうと「象徴戦略」を多様かつ巧みに展開していったことと指摘さ れた。また、「瀬長亀次郎」を言及しつつ、「なんくるないさ」的なウチナーンチュの「不屈」 の抵抗のあり方こそ米軍統治時代に培われたものでもあるとコメントされた。その後、3 人 のパネラーでディスカションが行われ、会場からは土屋礼子氏や丁智恵氏から概念の確認 や当時の『うるま新報』の琉球における位置付けと 1950 年代以降の変貌について質問がなされた。

いわゆる「プーチン戦争」は現在進行中である。こうした世界秩序の激動の中で、当日はワークショップ 5 の狙いの一つであった 2)「東アジアにおける沖縄イメージの形成」について 十分な問題提起ができなかったものの、「沖縄と朝鮮戦争」についての現段階 での議論をまとめ、「東アジアにおいて今後どのような未来を切り開けるか」といった課題 について今後の展開を見据えるための第一歩として、一つのマイルストーンとなったと考える。

ワークショップ6
デジタル時代の『災害報道3.0』の課題を整理する:
データからのアプローチ

  • 司会者・問題提起者:奥村信幸(武蔵大学)
  • 討論者:庄司昌彦(武蔵大学)
  • 参加者数:13人(最大時)
  • 執筆担当者:奥村信幸

 冒頭、奥村よりテーマの説明を行い、デジタルの時代にマッチした災害や安全、避難生活等情報が各々のユーザーにカスタマイズした形でスマホを使ってアクセスできるような「災害報道3.0」の時代に対応するため、伝統的なニュースメディアがいかに変容しなければならないかの課題を考えていきたいという枠組みを提示した。

 続いて奥村と庄司氏の対話形式で、ディスカッション・ポイントを提示、重要性や考慮すべき社会環境的要因やメディアの特徴などについて整理した。奥村は、現在のテレビを中心とする災害報道の枠組みでは、気象庁など非常に限られたデータをメディア側が勝手に選別し、ユーザーには見えない優先順位付けが行われて発信されるという意味でもはや時代遅れであり、スマホの位置情報などをもとに、個人の要求するデータが直接得られるようにする仕組みを整備することが優先されるべきであることを指摘した。従来の報道ではもはや「傍観者のジャーナリズム」であり、当事者の役に立たない「たいへんだジャーナリズム」になっているとして、ユーザーも同じデータにアクセスできることを前提に、警報などをピックアップしてアラートする「キュレーション」や、災害時の情報公開や必要なリソースが公平に使用されているかなどジャーナリズム本来の「権力の監視」に注力すべきであることを提言した。

 庄司氏は政府や地方自治体のDXやオープンデータに深く関わってきた経験と研究成果を披露し、2011年の東日本大震災を機に避難所や物資などの情報がデータとして整理され、避難所や物資などの情報がプッシュで住民に届くようなサービスが発展してきた経緯を説明、しかし行政が持っているデータでは十分ではなく、民間の会社が作っている地図情報などから消火栓マップができたり、写真のアーカイブ化ビッグデータの解析などにより人々の動きが把握でき行動の指針ができるなど、官民の連携が非常に重要であるにも関わらず、特に行政側がデータの共有に積極的でなく、「オープンデータ」「オープンガバメント」の考え方重要なカギとなるという指摘があった。

また、ガス管の地震によるダメージを把握するためにガス会社が何丁目単位で有しているデータなどを民間の会社が開拓しデータサービスに結びつける事例なども紹介され、新たなデータを整備する動きも活発に行われている現状が共有され、問題提起者と討論者らが共同でまとめた、災害時に必要なデータを、データの出元(中央政府、自治体、民間など)や災害の時系列(警戒⇒発災と安全確保⇒避難生活⇒復旧復興)などのフェーズに分けてリストアップした表も示され、説明がなされた。

後半の約1時間は意見交換が行われ、災害時に特に懸念されるデマや誤情報などに惑わされないために、メディアの日常からニュースがどのように発信されるのかというユーザー側の理解を進める必要や、東日本大震災の原発事故報道の際にあれほど重要と認識された専門記者が、キュレーションや解説、専門家の発見や取材にと重要視される災害(や医療など)の分野で、これまで以上に必要性が増しているにもかかわらず、そのような日常取材の集積では身につかない専門領域の記者の採用や養成の仕組みが全くと言っていいほど進んでいない現状についての疑問や批判、メディアビジネスのエコノミーなどを考えると、非常に大きな災害の備えのためにコラボレーション(協働)の戦略が合理的であるはずなのに、これも東日本大震災の計画停電報道など以降、ほとんどメディアの間で議論が進んでいない現状の指摘などがなされ、活発なやりとりがあった。

ワークショップ7
BPOと放送局、視聴者のギャップを埋めるには:
青少年委員会「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」に関する見解から考える

  • 司会者: 佐藤 研(BS朝日)
  • 問題提起者: 中井 孔人(日本海テレビ)
  • 討論者: 山下 玲子(東京経済大学)
  • 討論者: 飯田豊(立命館大学)
  • 〔企画: メディア倫理法制研究部会〕

 BPO(放送倫理・番組向上機構)の青少年委員会が 4 月 15 日に公表した「『痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー』に関する見解」をめぐり、BPOと放送局、視聴者との関係や公権力の介入を防ぐためにBPOや放送局がなすべきことなどを議論した。

 始めに中井会員から問題提起があり、同見解には注釈が多く、現場の制作者に読ませる「意志」がない、内容に新味がなく制作者への「愛」が感じられないなどと指摘した。また、見解が現場の「面白い番組作り感覚」の萎縮を招くことや青少年委員会の制作現場への無理解などを危惧した。一方、制作者側がBPOにガイドラインを求めたことを問題視し、自分たちで徹底的に考え抜くことを求めた。そして「制作者が向き合うべきなのはBPOではなく視聴者だ」と説いた。

 続いて山下会員がテレビの面白さに関する大学生および一般の人々への調査結果を紹介した。2015年の調査では規制がテレビを骨抜きにしたなどの意見があった一方、「くだらないことが面白い。頭を空っぽにして見られる」などポジティブな意見があったという。2017年の調査からは、テレビがつまらない理由にマンネリや似たような内容が多い点が挙がっていること、「面白さ」として、知的なもの、公共的なもの、親しい人たちと共有できる体験を求めていること、暴力や下ネタ、差別的表現が増えていると評価している人々が約3割いることなどを紹介した。ただし、BPOも放送法も一般人には遠く、規制は誰がしているのか、本当のところは分かっていないと考察。2022年の調査結果から、くだらないものはYouTubeで十分であり、「痛みを伴う」笑いはテレビに求められていないとして、若者のテレビ離れに対し、テレビにしかできないことを追求し、広く公共性を意識した存在になることを期待した。

 これらを受け、飯田会員が意見を述べた。見解をめぐる批判の焦点は、内容よりもむしろ、BPOと放送局側とのコミュニケーションデザインの問題ではないかとし、6月28日に開かれたBPOと制作者との意見交換会も、その点で改善の余地があったとした。見解自体は視聴者意見とかい離しているとは思えず、見解が示した懸念に対する真っ当な批判は目にしたことがないとしたうえで、読みにくさがあったことは否定できないと指摘。見解が問題視したのは「視聴者と、心身に加えられた暴力に苦悶する出演者の間に、それを見て嘲笑する他の出演者が入るという多重構造」であり、「『他人の心身の痛み』を周囲の人が笑う場面が、リアリティーショーの体裁として放映されること」という限定的な演出だったと解説した。また、見解のタイトルが誤解を招きやすく、「心身の痛み」や「周囲の嘲笑」といった言葉が入っていれば受け取り方も違ったかもしれないとの見方を示した。

 その後、参加者を交えて意見交換を行った。視聴者と放送局およびBPOとの関係を議論し、かつては視聴者がテレビを応援し、放送は国民にとって最も身近なメディアであったが、この関係が成り立たず、さらにいじめが日常化するなど前提条件が変化しているとの指摘があったほか、BPOを理解してもらうためにはリテラシー教育が重要との意見があった。

 放送局とBPOとの関係をめぐっては、制作者とBPOが対等な立場で話し合うなど、コミュニケーションの重要性が強調され、BPOの「講師派遣」制度の活用などが提言された。さらに「BPOの役割について議論し直す必要がある」「見解を制約と捉えず、新しい表現、クリエイティブで乗り越えてほしい」「BPOのスタンスが放送局の内部に周知されていないのが問題」「制作者よりも編成に携わる人間がより真剣に向き合うべき」との意見も出た。さらに、研究成果をBPOに働きかけ、現場にもわかりやすく伝えられるようにするといった、メディア学会としての取り組みも提案された。(参加者38人)

(文責:本間謙介)

 ワークショップ8
メディア史から問う東アジアの政治と文化:日韓関係を中心に

  • 司会者:佐藤彰宣(流通科学大学)
  • 問題提起者:趙相宇(立命館大学)
  • 討論者:白戸健一郎(筑波大学)

 日本と韓国は、政治面で冷え切った関係にあるといわれて久しい。「慰安婦」や「徴用工」をはじめ数々の外交問題が現在まで山積しており、両国の国民感情に亀裂を生じさせてきた。

その一方で文化面に目を移すと、まったく違った様相がみられる。例えば日本ではKポップの人気は衰えをみせることなく、動画配信サービスやSNSなどを通して、若者世代を中心に広く親しまれている。

 こうした日韓関係における政治と文化の落差について、メディア史の視点からはどのように読み解くことができるだろうか。本ワークショップでは、まず問題提起者の趙相宇会員より日韓関係の政治文化史に関する報告が行われた。具体的には、現在の政治と文化のギャップは1990年代に由来することが指摘された。

日韓関係にとって1990年代は、歴史認識を中心とした外交問題が焦点化する一方で、メディア文化を通して大衆レベルでの両国間の親密さが浸透し始める時期であった。韓国では軍事政権からの民主化により、それまでの軍事政権下で抑圧的に政治的な葛藤を収めてきた「輿論指導」は機能しなくなった。政治体制の転換によって成立した「世論政治」に伴い、韓国社会においては大衆感情が文化的に複雑な形で発露されるようになったことで、「政治と文化のギャップ」についての認識が生まれたのではないかと示唆された。韓国社会の複雑な大衆感情を象徴する具体的事例として報告内で紹介されたのが、群山の近代文化遺産である。同地の旧朝鮮総督府は植民地支配を想起させるものとして撤去されたが、観光地として整備されるなかで日本的な景観が郷愁を誘う対象として消費されているという。こうした政治現象や文化交流の効果を考えるためにも、「歴史の探求」としてのメディア史的なアプローチが有効なのではないかという問題提起がなされた。

これらの報告を受けて、討論者として白戸健一郎会員からは、政治現象と文化受容の捉え方などに関する質問がなされた。文化交流による両国間の「親日/親韓」といった大衆感情は、メディア文化政策の長期的な効果として考える必要性があり、同時代の政治現象に直接影響するのか。また趙会員が近現代における韓国の記念日報道のなかで提示してきた「参加としての自主性」という視点は、現在の日韓関係を読み解くうえでどのように応用できそうか、などが討論された。

さらにフロアからも、文化よりも政治報道優位の日本のジャーナリズムのあり方が、「冷え切った日韓関係」という認識そのものを生み出しているのではないかといった指摘も寄せられた。日韓関係の政治・文化現象を分析するためのさまざまな論点が提起された有意義な会となった。

参加者数:20名
執筆担当者:佐藤彰宣


ワークショップ9
「放送の地域性」の評価方法を考える:情報空間全体における持続可能な地域情報流通のために

  • 司会:樋口喜昭(東海大学)
  • 問題提起者:脇浜紀子(京都産業大学)、
    寺地美奈子(筑波大学)
  • 討論者:橋本純次(社会構想大学院大学)
  • 参加者数:30名
    執筆担当者:樋口喜昭

     

現在、放送事業者の経営基盤の強化を図ることを目的として、事実上の「放送局のブロック化」を視野に入れた規制改革が進められている。概ね県単位をエリアとしてきた地上波放送のブロック化が進めば、「放送の地域性」が確保できない恐れがある。経営基盤強化といった対処療法だけではなく、基本的情報としての地域情報のあり方を議論し、放送による地域情報流通の測定基準をまず先に用意する必要があるのではないだろうか。本ワークショップでは、放送対象地域の広域化が地域情報流通にどのような影響を与えるのかを検討するため広域圏での放送の地域情報流通に的を絞り議論を行った。

 はじめに、脇浜会員より、地上波民放テレビの置局数を元に都道府県単位で地域情報流通機能の定量化を試みた数値が提示され、広域圏の映像地域情報が手薄であることが報告された。また、関西広域圏において域内のどのような情報がどのような割合で取り上げられているかをTVメタデータの分析から示された。ここから、話題種別によって府県ごとに偏りがみられること、番組店舗データも大阪偏重になっていることなど、広域化による懸念事項が示された。その上で、地域情報を補完できるニュースネット配信の現況について報告があった。そして、放送番組の同一化を行う放送事業者に対して、地域情報の発信を確保するための仕組みを併せて措置すること、作るならば三大広域圏から行うべきであることが提起された。

 次に寺地会員より、関東広域圏において唯一民放テレビ局が存在しない茨城県で地域情報の過疎が発生するに至った経緯と現状の報告があった。その中で、県域と広域圏の比較に基づいて、地域情報をめぐるテレビ経験がどのように異なるのかを番組やCM等の事例から示し、茨城県に県域局が無いことに起因する差であることが報告された。また、茨城でどのように地域情報を補おうとしてきたのかを、NHK水戸の設立やネットでの取り組みとその限界について報告された。そして、広域圏における地域情報過疎の問題は現状乗り越えられておらず、放送対象地域の広域化は、茨城県のようなテレビ文化の乏しい地域が増えることになることが予想され、何らかの手立てが必要であることが提起された。
 次に、討論者である橋本会員から、脇浜報告を受けて、広域放送対象地域から「地域性」を捉えることの重要性が示され、また、これまで指標とされてきた自社制作比率や番組内容と「地域性」を紐づけることに難しさがあることが指摘された。また、寺地報告を受けて、「地域性」にはグラデーションがあること、現実に日本でも地域情報過疎が生じているという事実が指摘された。その上で、前提とすべき放送制度の設計思想として、全国一律の制度設計とはしないこと、地域規模/市場規模/地理的特性を反映し、測定方向にグラデーションを持たせること、定量基準を設ける場合は番組内容への直接的評価は避け、従業員の組成といった組織の密着度を基準として取り入れるといった案が示された。さらにこの基準を満たさない場合であっても、放送局自身が地域性を発揮していることを公表し、それを第三者によって評価する案が示された。
 以上の議論を受けてフロアからは、独立局の番組編成でのスポーツと地域性への影響、県域局のない茨城県と存在する栃木県との比較について質問があった。また、橋本会員の地域性の評価方法に対して、地域性基準の公表については事業者の負担になるのではないか、既に存在する公表制度の効果についても検証する必要があるのではないか、指標の単位が価値につながらないと経済性につながらないのではないかといったコメントが寄せられた。

今回の議論を叩き台とし、放送の地域情報流通が評価される仕組みが広く議論されていくことの重要性が確認された。
(参加者30名)

ワークショップ10
「メディアの倫理とページビューの論理- ネットニュースのジレンマ」

  • 司会者:小川 明子(名古屋大学)
  • 問題提起者:今子 さゆり(ヤフー株式会社)
  • 討論者:宇田川 敦史(武蔵大学)

本ワークショップは、ニュース配信の中心的な役割を担いつつあるインターネットのニュースポータルサイトの運営をめぐって、広告収益を安定的に確保するための「ページビューの論理」と「メディアとしての倫理」をめぐって生起している多様な問題について、関係者の「悪意」や「倫理の欠如」に還元するのではなく、ニュースメディアの生態系が有する構造的な問題としてとらえなおし、当事者である実務家と、メディア研究者との対話を通じて解決の方向性を検討することを目的として実施された。

はじめに、問題提起者のヤフー株式会社 今子氏から、「信頼性あるメディア空間構築に向けた取り組み」と題し、Yahoo!ニュースの基本的なシステムの紹介と、公共性の高い情報流通の場として、ユーザーの信頼感を高めるための取り組みについて紹介があった。現在、Yahoo!ニュースには、審査を経て契約を締結した440のメディア企業から毎日約7500記事が掲載されており、「公共性と社会的関心に応える」という編集方針のもと、総合的に編集部員が判断して6−8本のニュースをトピックスとしてトップページに掲載している。ニュースの信頼性という点においては、パートナー、専門家との解説・検証記事を強化する取り組みや、啓発コンテンツの作成、また2021年に設定された読者による記事リアクションボタンによって、品質管理、配信料支払いやレコメンドに活用される取り組みが始まっていることなどが紹介された。またYahoo!ニュースに関しては、世の中の多様な意見や考えを伝えるという目的のもとでコメント欄が提供されているが、誹謗中傷なども問題視されている。その点に関しても、コメントポリシーを明らかにしているほか、今月(2022年11月)からコメント投稿に電話番号設定を必要としたことなど、新たなルール設定についても紹介がなされた。

こうした現状を踏まえ、討論者の宇田川敦史氏からは、1)「情報オーバーロード」と「フィルターバブル」という古くて新しいネット社会の問題に対し、クリックの最大化に偏ることなく「公共性の高い」ニュースをユーザーの視界に入れていく(セレンディピティを確保する)ための配信面の再配分の可能性についてどう考えるべきか。2) 配信元が多様化し、偽情報・誤情報の温床ともいわれる「こたつ記事」などが散見される状況において、いかに配信ニュースを選別・編集し、信頼性の高いプラットフォームを提供していくのか。その際、編集という作業とその責任について、中立性を旨とする「プラットフォーム」企業としてどう認識しているか。3)上記のような問題を踏まえ、今後、持続可能なビジネスモデルをどのように構築していくのかという点についてコメントと問いかけがなされた。

会場からは、比較的新しいプラットフォーム企業として、倫理がどのように設定、周知されているのか、また、人材育成、配置がいかに行われているのかといった問いを中心に質問が寄せられ、プラットフォーム企業としてのヤフーとしても日々試行錯誤が続けられている様子が報告された。多大な影響力を持つようになったニュースサイトの今後について、49名の参加があり、会員の関心の高さが可視化されたセッションとなった。

(小川 明子)

ワークショップ11
Discussing Affective Spaces of Embodiment and Performance in Asia

  • 司会者:Yeo Yezi (Rikkyo University)
  • 問題提起者・討論者1:Marco Di Francesco (University of Oxford)
  • 問題提起者・討論者2:Kim Sunhee (Korea National University of Arts)
  • 問題提起者・討論者3:Susan Taylor (Harvard University)
  • 問題提起者・討論者4:Yeo Yezi (Rikkyo University)

参加者数:7

執筆担当者:Yeo, Taylor, Di Francesco, Kim

ワークショップの概要:

異文化間パフォーマンス、落語の語り、改装された軍事基地、古本市場:これらの各スペースでは、日本と韓国の文化における具体化されたコミュニケーションを垣間見ることができます。それらはまた、感情的な関係に依存する空間でもあります:物質と身体、観客とパフォーマンス、訪問者と環境、そしてイデオロギーと主題の間。このワークショップでは、感情と具体化の理論を使用して、日本、韓国、およびその他の国境を越えた出会いにおける身体を通しての社会的空間のアニメーションを調べます。実践の歴史がどのように呼び出され、挑戦され、覆されるかを追跡することによって、このワークショップは、日本と韓国の文脈における具体化、パフォーマンス、および空間に対するそれらの感情的な関係のマルチサイト分析を提供します。ディフランチェスコは落語の世界の舞台の内外で性別の具体化された行動を分析し、キムはキャラクターに「なる」俳優の創造的なプロセスを探求し、テイラーは神保町の古いブックマークに知識がどのように具体化されるかを追跡し、ヨは地政学的同盟の空間を具現化された軍事スペクタクルとして調べます。このワークショップは、アジアの身体、影響、パフォーマンス、空間のより包括的な探求を提供するために、4つの異なる角度から具体化にアプローチする4人の問題提起/討論者で構成されています。

私たちのパネルは、メディアの全く異なる側面を研究している4人が一堂に会し、身体性について議論する機会を提供しました。私たちの研究はそれぞれ、パフォーマンスからメディア・テキストの受容、印刷メディアの再循環に至るまで、身体化されたメディアのさまざまな側面を考察しています。私たちはパネルのディスカッションに以下の質問をしました。1. 身体性という概念は、どのように身体と関係しているのか? 2. 身体、感覚、社会の関係をどのように理解/理論化するべきか? 3. 身体性は媒介とどう違うのか、どう重なるのか?私たちの議論は、何をもって媒介された経験の内側と外側とみなすかという問題に集約されるように思われました。この内側と外側の曖昧さは、俳優と女優の実際の離婚が映画の撮影地への観光客を減少させたというヨの発表に最もよく表れていた。また、デフランチェスコの発表では、女性落語家が男性キャラクターを演じることが不自然であると認識されていることが非常によく表れていた。これは、この研究において、新たな理論化の地平を切り開く刺激的な道筋となりました。また、キムとテイラーの交流の中で、「情緒」についての理解を改め、人がどのようにモノ(知らない古書とか)に気づくのかについて、より深く理解することができました。このような実りある知的交流は、全く異なるバックグラウンドを持つ私たちだからこそできたことだと思います。

学会とはただ自分の研究を発表する場だけではなく、他の研究者と語り合いお互いに刺激しあい、 自分の学術的な分野から出ないと中々思いつけないアイデアを生み出す創造的な空間であります。 これが理想的な場合だが、現実では時間が足りなかったりして話が途中で止まって、「続きはまた今度」 ということでもったいないことが多い。今年の三月に別の学会で始めた話を、この日本メディア学会にて ワークショップといった形で、深いところまで探り、とても有意義な機会になりました。 またオンラインということでこのご時世で中々集まることのできない他国の研究者が協力し語り合う場 を与えてくださった日本メディア学会に心底感謝します。(1456字)

ワークショップ12 : 
メディウム/メディアとしてのコンピュータ―「メディア学会」への名称変更を 受けての一提言

  • 司会者:門林岳史(関西大学)
  • 問題提起者・報告者:庄司尚央(東京大学大学院院生)
  • 報告者:梅田拓也(同志社女子大学)
  • 討論者:伊藤守(早稲田大学)清水知子(東京芸術大学)
  • 参加者数:47 名(司会・発表者・討論者・企画委員計 6 名を含む)
  • 執筆担当者:庄司尚央

梅田会員は、ハードウェアに注目して、フリードリッヒ・キットラーの権力論というキッ トラーにおいてこれまであまり論じられなかった側面について、現代社会におけるコンピ ュータ・アーキテクチャをめぐる文化政治的な側面に視野を配りながら報告した。マイクロ チップの内部において展開された官僚主義的な傾向としてのプロテクトモードは、専門の プログラマーにおいてもチップ上の計算処理を不可視にさせ、性能の向上を優先させる情 報工学の論理をも阻害させる権力者による情報の囲い込みである。梅田会員は、こうした支 配的な傾向をもつハードウェアとは異なったアーキテクチャを発明し普及させていくこと が手掛かりになるとして、技術者をエンパワーメントするための文化論的なメディア研究 という方向性を提示した。庄司は、マシュー・フラーとアレクサンダー・ギャロウェイにつ いて、2000 年代以降の英語圏におけるドゥルーズ/ガタリの影響を踏まえた研究動向とし て、その内実を 2010 年代への著作の展開も視野に入れて論じた。メディアのエコロジーに おいてスケールをいかに横断するか、というガタリの主題をメディア論として展開したフ ラーの業績は、曖昧な(灰色の)領域に属するソフトウェアについて、中立的な立場にある のではなく策略 stratagem として展開される「邪悪」なメディアだとして総覧的な研究を行 ったこと、苦悩、荒廃、解決不可能性、偶然性、植物という独創的な視座によって主題の展 開を図ったことに挙げられ、また、特に 2010 年代においてソフトウェア研究やフランソワ・ ラリュエルの非哲学の理論的摂取を図ったギャロウェイは、非決断という独特な実践策を 提示している。

司会の門林会員からは、梅田・庄司両会員の発表について、メディア研究を取り巻く時代 的な系列も加味しながら、コンピュータの様態を説くことの必要性や、レフ・マノヴィッチ をはじめとする研究者の位置づけについての質問が示された。討論者である清水会員から、 梅田会員が提示した男性的なハードウェア産業を取り巻く状況に対してコンピュータの開 発過程における女性が果たしてきた役目、庄司の発表に対して植物への着眼や可塑性をめ ぐるコメントがあり、伊藤会員からは、庄司のフラー解釈についての賛同の一方ギャロウェ イの論旨に対する疑問点が提示され、梅田会員に対しては、キットラーの権力論が『書き取りシステム 1800/1900』ではどのように展開されているか、またベンヤミンやハイデガーの遊戯論/技術論はどのように位置づけられるかという質問が述べられた。梅田会員からは、 キットラーの技術的な視座はドゥルーズ/ガタリ的な関係概念も記号によって構築された仮象的なものであることが述べられ、庄司からは、フラーが『邪悪なメディア』で示していた 脳に対する関心は、同じくガタリに範を取るフランコ・ベラルディやマウリツィオ・ラッツァラートにも共有されていた可塑性をめぐる議論であり、ギャロウェイの非決断・退出の立 場はフラーの植物やパリッカの鉱物についての見解とそう遠いものではなく、2010 年代の ドゥルーズ/ガタリをめぐる研究状況において捉える必要がある、と議論が続いた。フロアからは、伊藤会員からコンピュータやメディア産業が時系列的にどのように変化している のか、今関会員から、メディア、メディエーション、技術、といった概念はどのように区別 されるのか、といった質問が提示され、応答が継続した。登壇者を中心にコンピュータをメ ディアとして積極的な研究対象にしていくための視座や方針、理論的前提や先行研究の検 討についての議論は白熱し、本学会において今後も継続していくべき課題であると思われた。

以上