2021年秋季大会ワークショップ開催記録

 2021年秋季大会で開催されましたワークショップの開催記録を掲載いたします(2022年1月10日)。

ワークショップ1
「メディア理論の脱西欧化」をめぐる現状と課題――非欧米圏における研究拠点の形成と状況の把握

  • 司会者: 津田 正太郎 (法政大学)
  • 問題提起者: 千葉 悠志 (公立小松大学)
  • 討論者: 于 海春 (早稲田大学)

 近年におけるメディア環境の激変は、全世界的な規模でコミュニケーションのあり方を大きく変化させてきた。開発途上国においてもメディア産業が発達し、その情報環境やメディア政策もさまざまな展開を見せている。そうしたなかにあって、欧米を中心に展開されてきたメディア研究のあり方も大きな転換点にある。

 以上の観点から、本ワークショップではまず、千葉悠志会員からの問題提起が行われた。千葉会員によれば、欧米で展開されてきた諸理論は、研究や教育が制度化されていく「場」の影響のもとで発展してきた。たとえば、ある仮説が理論として結晶化し、別の仮説が忘却されるという選別の歴史的過程において「場」の影響がみられるのではないかという。このような観点からすれば、地理的な枠組みを絶対視することは不適切であるにせよ、非欧米圏で展開されるメディア研究からは欧米産の理論の枠組みを広げていく理論が生み出される可能性も期待される。

 千葉会員からは次に、中東におけるメディア研究にかんする紹介があった。そこでは一部の例外を除いては旧宗主国のメディア研究の影響力が大きく、教員が不足していたこともあり、長きにわたって独自の貢献とみなしうるものは大きくはなかった。しかし、1990年代以降、欧米で教育を受けた研究者が増加してきたことなどから、トランスナショナルメディアに関する研究や、人類学の観点からのメディア研究の質が向上してきた。ノースウェスタン大学カタル校のように、欧米で教育を受けた有力な研究者が集う「場」も形成されてきているという。

 続けて、于海春会員からは、中国におけるメディア研究の「場」についての報告が行われた。1970年代後半から1980年代前半にかけて故・内川芳美会員やW.シュラムのような研究者が訪中したことが契機となり、中国においてもメディア研究が急成長を遂げた。欧米の研究者の著作が翻訳され、中国人民大学で質問紙による世論調査が開始されるなど、経験的な理論と研究がその中心となった。そのさいには香港の研究者が大きな貢献をなした。

 その一方で、中国ではメディア理論の本土化も進められ、学会や多くの研究拠点のような「場」が生み出されている。2000年以降にはマルクス新聞思想研究が注目を集めるようになったほか、欧米圏への留学経験を有する研究者によって批判的な政治経済学理論の研究が進められている。加えて、中国のメディア研究では機能主義の影響が強く、社会決定論を前提として、あらゆるメディア現象を「社会的ニーズ」から説明しようとする傾向にあり、そのことが理論研究の進展を阻んでいるとの指摘も紹介された。

 以上の両会員による報告に対し、フロアからは于会員の「本土化」という概念に関する質問や、中国で批判理論が受け入れられた経緯などに関する質問があり、後者に対しては経済危機を契機として新自由主義に対する批判や、中国的な資本主義の問題に対する意識が高まったことが挙げられた。また、千葉会員に対してはカタールにおけるメディア研究の背景や制約に関する質問が行われた。それに対しては、たしかに政治的制約はあるものの、トランスナショナルな観点からの研究がむしろ促進されている可能性があるとの返答が行われた。さらに、欧米以外の研究者が理論の参照点になる可能性についての質問など、限られた時間内ではあったものの活発な議論が行われた。(参加者29名)

(記録:津田 正太郎)

ワークショップ2  
ジャーナリズムの未来を語る方法論としてのメディア史

  • 司会者: 井川 充雄 (立教大学)
  • 問題提起者: 松尾 理也 (大阪芸術大学短期大学部)
  • 討論者: 山口 仁 (日本大学)

 本ワークショップ「ジャーナリズムの未来を語る方法論としてのメディア史」は、メディア史という比較的新しい方法論の可能性を問いつつ、ジャーナリズム研究という伝統的方法論といかに接続し、またいかに差異を明確にすべきかについて討議しようとするものである。

 まず問題提起者の松尾理也会員からは以下のような発表があった。かつて〈ジャーナリズム史〉と呼ばれていた大学講義科目名が〈マス・コミュニケーション史〉に変わり、さらには〈メディア史〉と変容したという指摘はしばしばなされるが、佐藤卓己によれば、ジャーナリズム史は教訓的歴史への志向性を特徴とし、マス・コミュニケーション史は実証的歴史学に相当し、そしてメディア史とは、研究者のポジショナリティが問われる批判的歴史学である。ジャーナリズム論もまた、規範論(あるべき論)を基調とし、新聞企業の発展史あるいは大物ジャーナリストの体験談、武勇伝などの形を取りながら展開されてきた。ただ、そうしたジャーナリズム論が多様な可能性を狭めてしまうとの批判もある。そうした中、問題提起者がメディア史の手法を用いた『大阪時事新報の研究』(創元社、2021年)で『大阪時事新報』を取り上げたのは、従来の定型とは違った角度からひとつの新聞の歴史を描こうと試みたからであり、本質主義的な議論をさけ、位置拘束性に自覚的な批判的メディア史を語るために『朝日』『毎日』ではなく「負け組」の歴史を辿る意味はあると考えたからである。

 これを受け、討論者の山口仁会員からは、曖昧なまま用いられがちな「ジャーナリズム」、「マス・コミュニケーション」、「メディア」といった概念を峻別する必要性が述べられた。さらに、社会的構築主義の観点から「ジャーナリズムを語ること」はコミュニケーションの一種として把握できること、そしてそのコミュニケーション過程において生じる排除が指摘された。一方で、現代社会においては共通のジャーナリズム像が構築できなくなっている可能性についても併せて指摘がなされた。

 このあと参加者からは、杉山隆男の『メディアの興亡』、下山進の『勝負の分かれ目』などのノンフィクション作品と「メディア史研究」の相違点についての質問や、ジャーナリズムの現場の力学のなかで、受け手の期待よりも送り手の規範や倫理が優先され、それがジャーナリズム論に反映してきたとの指摘、それに関西ジャーナリズムにおける権力監視機能の特徴などについての発言があり、登壇者との討論が行われた。(参加者27名)

(記録:井川 充雄)

ワークショップ3 
コロナ禍における報道が突き付けたもの

  • 司会者: 阿部 圭介 (日本新聞協会)
  • 問題提起者: 稲井 英一郎 (元TBS)
  • 討論者: 長浜 誉佳 (人文社会医学総研)

 本ワークショップは、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大下、その報道の在り方について、報道現場経験者である稲井英一郎会員と、医師の長浜誉佳会員がそれぞれの立場から問題提起し、討議することを目的にした。

 稲井会員は、本学会2018年秋季研究発表会のワークショップで「内部監査の概念と手法を結合させた新ジャーナリズムの理論と実践の提案」を問題提起している。報道に求める観点として客観性、科学性、論理性を重視し、帰納法的手法で議題(仮説)、演繹法で改善策を提示する在り方をジャーナリズムのモデルとした。今回もその手法に則って、「感染状況の評価伝達(単純、画一的、感情的でなかったか)」、「インフォデミックへの配慮」、「専門家の意見、予測への評価(常に科学的に正しいとしていなかったか)」、「被害者でもある人々への監視報道」、「医療逼迫の検証」、「ワクチンの効果、長期安全性に関する情報」、「人流、飲食業と感染状況の因果関係の検証」の7つの視点を提示した。

 長浜会員は医師の立場から報道に対して、「報道の目的は感染者数を減らしたいのか、社会経済活動を優先したいのか」、「政策批判だけして国民の不安を煽りがちではなかったか。最終的にどこに帰結したいのか」、「医療逼迫の構造要因への掘り下げが足りない(できない)のはなぜか」の3点を疑問点として挙げた。

 それを受け、稲井会員からは今後望ましい報道として、「専門家の見解報道時に、その分野から逸脱しない配慮」「感染抑制策と抑制効果の因果関係をビックデータ解析で検証」「患者の視点から見た望ましい医療提供体制の検証」の3点を問題提起した。

 その後、参加者を交えた討議を行った。報道側と専門家との関係については関心が高く、民間放送の現場では専門性のある記者やサイエンスコミュニケーターの役割を担える人材が不足している点や、そもそも日本では公衆衛生学が発達しておらず、医療現場の実情を理解している専門家が不足している点など、活発に意見が出された。

 また、誤報について、誰もが正解を知らない中で相対的な正解(ベター)な報道をどう行っていけばいいのかという問題提起があった。福島第一原発事故報道に携わった経験から、海外と日本の報道について、海外では仮説を立てて論じる傾向があるが、日本では確認が取れないと書くことができず、「叩く」報道になりがちだと感じたとの意見もあった。

 最後に稲井会員から内部監査手法で抽出した報道の課題として、「専門性を育成しない人事組織制度」、「外形的客観報道(客観報道としての体裁を整えてよしとする)」、「非公知情報、出所が明示されていない情報、匿名発言を多用するニュースや記事」、「相関関係と因果関係を混同しがちな論点のずれ」を提起し、今後の課題とした。(参加者34名)

(記録:阿部 圭介)

ワークショップ4
「戦争の記憶と記録」の現在地―メディアと戦後76年間の「継承」を問う

  • 司会者:水島 久光(東海大学)
  • 問題提起者:米倉 律(日本大学)
  • 討論者福間 良明(立命館大学)

 本ワークショップは、「戦後」世代が、戦禍からの距離や時間をいかに認識し、語り、記憶し、記録してきたかを再考する機会として企画された。きっかけは2020~2021年夏の間に出版された三冊の書籍である――水島久光『戦争をいかに語り継ぐか-「映像」と「証言」から考える戦後史』(2020年6月、NHK出版)、福間良明『戦後日本、記憶の力学―「継承という断絶」と無難さの政治学』(2020年7月、作品社)、米倉律『「八月ジャーナリズム」と戦後日本―戦争の記憶はどう作られてきたのか』(2021年7月、花伝社)。この著者三名が、本ワークショップの企画者兼司会、問題提起者、討論者である。

 三者に共通する問題意識は「戦時体験の風化に抗する、記憶の継承」という命題の自明性に対するメタ批判にある。福間は「継承」を謳う言説自体に内包された「断絶」を、慰霊空間や映像表現をめぐる力学に見出す。米倉はその問題系を、八月に放送されたテレビ番組に組み込まれた「受難」の物語の変容として時系列を追う。水島はそうしたメディア表現が社会的コミュニケーションの非対称性に覆われている点に注目し、そこに「戦争」を乗り越えられない原罪を見る。三者三様のアプローチ(歴史社会学、ジャーナリズム、情報記号論)に注目し、このワークショップでは、敢えて司会、問題提起、討論の枠を外して、各々がフラットに他の二者の著作を評すことから論点を可視化し、「オープン・ダイアローグ(Seikkula and Arnkil,2006)」の理念を手掛かりに、参加者がそこに言葉を重ねていけるような討議デザインを試みた。

 論点は二つに絞られた。一つ目は「記憶の継承を支えるメディアおよび媒介者」の問題。まず福間が掲げた「メディア特性と“戦争の語り”の結節への比較メディア論的な検証の必要性」「アーカイブ化の功罪(アーカイブ化されたものが研究対象となり、未整理の資料が見失われるリスク)」「存命の体験者への依存と過去の体験者の忘却のコントラスト」の三つの問いに、米倉の提起する「国民の(ナショナルな)物語と公共性」、更には水島の「対象に向けられる嫌悪・忌避感」の視点が重ねられた。そこから第二の論点である「何を主題化し、どのように言語化するか」すなわち継承における「語り」の在りようの問題に展開。「脱歴史化」「ロマン化(物語化)」――「わかりやすさ」「あたりさわりなさ」が孕む歴史修正主義的傾向の背景に、「被害/加害の非対称性」や「平和主義」が掘り下げられないままに今日に至る「戦後史の行きつ戻りつ」があることが認識として共有化された。

 この三人の登壇者の討論に続き、ZOOMのブレークアウトルーム機能を用い、参加者が三つのグループにわかれて「リフレクティング・トーク」を行い活発な討議がなされた。「アジア」「若者」「現代の戦争」などの視点の欠落、ジェンダーなど「戦争」の外にあるテーマとの関係、アーカイブのアクセシビリティや解釈枠組み、方法的枠組みの硬直性の問題点等が指摘された。それに応答するべく登壇者は、戦争からそれを生み出す社会構造と変化そのものへ問いを広げることの重要性、そしてその問いに新しい世代など多様な主体が加わり視点を複数化していける可能性を論じた。もとより2時間強のセッションでは抱えきれない課題ではある。しかし結論を求めるのではなく、問題の構図を捉え直す機会としてはコンパクトにまとまった場となったのではないか。登壇者に限らず参加者が、様々に「次なる仕事」を展開し、「継承」の問題を、風化を怖れるネガティブなフレームから新たに議論を重ねるポジティブなフレームに移し替えていく、変化の起点となれば幸いである。(参加者23名)

(記録:水島 久光)

ワークショップ5
東アジアの反日主義とメディア文化

  • 司会者:伊藤 昌亮(成蹊大学)
  • 問題提起者:倉橋 耕平(創価大学)
  • 討論者:崔 銀姫(佛教大学)
  • 討論者:玄 武岩(北海道大学大学院)

 反日主義は、東アジア諸国の社会運動の一つの軸となってきたと同時に、日本では右派運動のジャーゴンとして流用されてきたという経緯がある。分断と抗争をもたらしてきたこの概念を、しかし本質主義的に理解するのではなく、東アジアの戦後体制の中で構築されてきたものとして捉え直せば、日本と東アジア諸国とがそれぞれの戦後と向き合うための新たな契機がそこに見出されるのではないか。さらに両者が和解し、連帯するための新たな道筋がそこから見えてくるのではないか。こうした問題意識から行われたのが本ワークショップだった。

 まず問題提起者の倉橋会員は、監訳者として携わったレオ・チンの議論、さらにその下敷きとなっている陳光興の議論を踏まえつつ、そうした問題意識を提起した。それによれば反日主義とは、東アジアの脱帝国化、脱植民地化、冷戦化のプロセスの中で、とくに日本の戦後政治の失敗からもたらされたものである。そこから新たな可能性を展望するためには、「方法としてのアジア」という意識に基づき、「親密性を理論化する」というアプローチを展開していく必要がある。そのためには国家間の交渉によるものではない、別のかたちの協力関係を模索していく必要があるが、そこではとりわけ女性の活動に注目することが重要となる。

 こうした問題提起を受け、次に第一討論者の崔会員は、とくに「方法としてのアジア」という論点に着目し、さまざまな文脈の中にそれを位置付けながら議論を展開した。それによればこの概念は、1990年代のポストコロニアリズムのみならず、陳の議論のさらに下敷きとなっている竹内好の議論や、それを取り巻く戦後民主主義思想、さらにその根幹にある共産主義思想など、さまざまな言論の系譜から、歴史的な射程の中で検討されなければならない。

 次に第二討論者の玄会員は、とくに「親密性を理論化する」という論点に着目し、日韓間の具体的な状況に即して議論を展開した。それによれば両国の市民社会が和解し、連帯するためには、「加害者」と「被害者」との関係を二項対立的に見るのではなく、重層的な連鎖構造として捉える必要がある。つまり日本がその「帝国意識」を乗り越えるとともに、韓国がその「被害者的優越意識」を乗り越え、さらに両者が共闘して「戦争被害受忍論」を乗り越える必要がある。そのための共同作業の道筋を示すものとして、「関釜裁判」(釜山朝鮮人従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟)などの事例が紹介された。

 これらの議論を受け、より発展的なディスカッションが交わされた。英語圏での議論など、より広い文脈の中にこの問題を位置付けていくことの必要性、また、市民社会を概念として捉えるのではなく、そこで織り成されているネットワークのあり方に目を向けていくことの重要性などが指摘された。

 この問題はきわめて難しいものだが、しかしそれを乗り越えていくための展望を、本ワークショップではとりわけメディア研究という足場から、一つの道筋として示すことができたのではないだろうか。さらにそれは、メディア研究の展開そのものの可能性を示すものでもあるだろう。(参加者47名)

(記録:伊藤 昌亮)

ワークショップ6 
テレビ・ドキュメンタリーに未来はあるか

  • 問題提起者:七沢 潔(NHK 放送文化研究所)
  • 討論者:小黒 純(同志社大学)
  • 司会:西村 秀樹(元近畿大学人権問題研究所)

 はじめに七沢は「テレビ・ドキュメンタリーとは何か」から議論を始めた。1953年にテレビ放送が始まって以来、『日本の素顔』(NHK、1957−63)と大河ドラマ両方を担当した吉田直哉、『奇病のかげで』(NHK、1959)で水俣病の存在・原因を追及した小倉一郎など、草創期の優れたドキュメンタリー制作者が社会に大きな影響を及ぼしたことを振り返った。

 その上で、発展を妨げる外部要因の一つとして政治の介入と自主自律の喪失を挙げる。例えば『南ベトナム海兵大隊戦記』(日テレ、1965)、『ハノイ 田英夫の証言』(TBS、1967)、『問われる戦時性暴力』(NHK、2001)など、政治家が放送局へ介入した歴史を確認した。そしてネット時代に入って加速する「若者のテレビ離れ」も深刻な懸念材料になっていると指摘した。

 一方、3つの内部要因も指摘した。時間からの撤退(放送時間帯がプライムタイムから深夜さらに未明へ)、表現からの撤退(「わかりやすさ」の呪縛、コンピュータグラフィックの多用、定型化、モザイク過剰など)、空間からの撤退(戦場、原発、コロナなど重要な現場に行かない)である。これらを強いられる背景として、視聴率重視の商業主義と、管理職、経営者による管理主義の強化について言及した。政府の発表への依存が高まる中、3・11直後、福島に赴いた七沢の番組『ネットワークでつくる放射能汚染地図』(NHK「ETV特集」、2011)についても解題した。

 こうしたテレビ報道の空洞化(身体性の欠如、定型化など)の流れに抗う若手制作者にも、議論に加わってもらった。一人目、松井至は、コロナ禍の東京・歌舞伎町で厳しい暮らしを余儀なくされた飲食業、風俗産業、医療従事者らの声を集め、ネットメディアに連載した上、『東京リトルネロ』(NHK「BS1スペシャル」)にまとめた。「テレビがやらないならネットでやればいい」と語る松井は、他方で東京・品川の居酒屋で作品を上映し、出演者や制作者が一般の観客と交流するイベントを開催してきた。松井は「定型的で役人根性に支配されたテレビ制作に幻滅した。ネット、テレビ、映画、イベントなどメディアを横断しながら、社会の『聴き取りにくい声』を聴き、人間を伝え続ける」と決意を示した。

 次に、房満満が議論に加わった。中国で生まれ育ち、早稲田大学大学院に留学後、テレビ制作会社で番組をつくっている。房は、コロナ禍で取材に入れない中国・武漢の状況を、つてを頼ってリモートで取材、『封鎖都市・武漢』(NHK「BS1スペシャル」)にまとめた(早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞)。中国のLGBTQの苦悩を赤裸々に描いた映画『カミングアウト』も制作した(東京ドキュメンタリー映画祭短編部門グランプリ)。房は「中国ではジャーナリズム活動ができないから、日本でドキュメンターを作り続ける」と自らの立ち位置を語った。

 討論者の小黒から「番組はだれに向かってつくるのか、日本人?中国の視聴者?」と質問を受け、房は「そのどちらにも」と答えた。中国の言論空間は閉塞していると房は訴えるが、では、日本国内の言論空間は自由なのか、と自問した。

 さらに、テレビ金沢で地域に根ざしたドキュメンタリー番組を長年制作している中崎清栄や、中京テレビなどで番組を制作した後、フリーで福島の映画をつくる笠井千晶からは、地域の人びとといっしょにドキュメンタリー番組をつくる苦しみと楽しさが報告された。

 テレビ・ドキュメンタリーに未来はあるのか。さまざまな角度から問われた。作品にアクセスできる環境を確保するにはどうするのか。著作権の問題はどうクリアされるのか。新たな地平を切り開く手法の報告などが続き、予定時間を15分ほど超過するほど、活発な議論がかわされたワークショップとなった。(参加者53名)

(記録:西村 秀樹)

ワークショップ7 
取材規制を考える──北海道新聞記者逮捕事件を契機に

  • 司会者:本間 謙介(⽇本⺠間放送連盟)
  • 問題提起者:韓 永學(北海学園⼤学)
  • 討論者:湯本 和寛(信越放送)

 本ワークショップは、2021年6月に起きた北海道新聞記者逮捕事件を題材に、取材の自由やジャーナリズム倫理などの論点から議論した。同事件は、学長の不祥事をめぐり旭川医大を取材していた北海道新聞(道新)の記者が、学長選考会議の開催されている大学構内で私人逮捕されたもの。韓永學会員が同事件の経緯・論点を説明した後、湯本和寛会員が自身の経験を基に考えを述べた。その後、参加者を交えて意見交換した。

 韓会員は、同事件の法的な論点として、公権力/公的機関による取材規制を考察した。①「取材行為の当否」について、博多駅テレビフィルム提出命令事件と西山事件の最高裁判決も引用しながら説明し、今回の事件は、取材・報道の自由の憲法上の位置付け、正当業務行為の要件から、取材行為の目的の正当性はあるとしつつ、手段・方法の相当性の有無の判断が難しく、違法性が阻却されるかどうか微妙だとの見方を示した。②「倫理的な論点」からは、今回の取材行為(大学構内への無断侵入、無断録音など)は知る権利という公益に応える必要性は高いが、「例外許容」を主張し難く、プレス倫理に反する取材手法を敢行すべき緊急性・必然性は不十分だとした。また、道新が逮捕された記者を③「実名報道」したことに関し、取材中の記者の逮捕という事の重大さから、公権力行使の監視の観点に立てば、実名報道は適切だと述べた。

 警察・司法担当などを経て、現在、デスクを務める湯本氏は、ポイントとして「市民とメディアの規範のズレ」「メディアの特権」「目的と手段の比較衡量」を挙げた。報道機関のガイドラインでは、偽装や潜入取材は他に方法がなく重要性に鑑みた場合のみだが、取材先が不都合な事実を隠そうとする場合は、取材拒否の現場での取材が高い評価を得るケースがあると指摘した。上記①に関しては、構内取材の「正当な理由」が主張できれば違法性は阻却されるとし、逃亡や証拠隠滅のおそれがないのに、逮捕や2日間の拘束はやりすぎだと述べた。②については、隠し撮りや録音は人権上の配慮や公共性、公益性、代替不可能性に鑑みて慎重に行うもので、個人での判断は問題があるとの見方を示した。③に関しても、実名の出し方や、道新のその後の説明を問題視し、報道機関独自の判断の重要性が求められるとした。そして、メディア一般に対する社会からの厳しい見方を最も危惧するとし、メディアの側がその存在や個々の報道の意義をストーリー化し、示すことが必要ではないかと述べた。

 意見交換は①~③を主な論点とした。①に関しては、近年、表現行為が狭められ、公的機関の取材行為への制約が強まる中、形式的に法律を適用することを危惧する意見が出た。②についても、最初から目的の公益性の有無で取材に制約をかけるのではなく、取材行為の自由度を担保すべきとの指摘や、取材相手が許してくれるかどうかで判断するイデオロギーが広がることへの懸念などが挙がった。さらに取材行為と称したユーチューバーらが活動する中、ジャーナリズムをどこで線引きするのか、さらにはメディアの特権も議論となった。③をめぐる議論では、今回の逮捕は重大な問題であり、そのことを検証するためにも、当該記者のことを市民が知り、考える必要があるとの意見や、実名報道したことなど、道新の対応・判断を問題視し、同社には一層の説明責任が求められるとの意見などがあった。

 なお、本ワークショップはメディア倫理・法制研究部会とジャーナリズム教育・研究部会の合同開催とした。(参加者32名)

(記録:本間 謙介)

以上