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■ 第30期第20回研究会(理論研究部会・企画委員会共催企画)終わる


テーマ:「テレビ・ドキュメンタリーと戦争・戦後史の記憶」
日   時:2007年5月11日(金) 18:15〜21:00
場   所:日本大学法学部本館2階第1会議室
問題提起者:桜井 均(NHK放送文化研究所)
討 論 者:佐藤 卓己(京都大学)
    :金山 勉(上智大学)
司   会:小林 直毅(長崎シーボルト大学)


 本研究会は、2007年春季研究発表会におけるシンポジウム「水俣病事件報道を検証する」と連動した企画として、理論研究部会と企画委員会との共催で行われた。 研究会の趣旨は、戦後日本のテレビ・ドキュメンタリーの歩みを振り返るなかで、その作品群が戦争をどのように描き出し、私たちの記憶をどう構築してきたのかを探ろうとするものであった。

 まず、桜井均氏からドキュメンタリー制作での豊富な経験をふまえて問題提起がなされた。桜井氏はドキュメンタリー番組を「認識のための道具」として位置づけ、その番組は入口と出口が変わっていなければならないと主張される。つまり、ドキュメンタリー制作では現実を変換する作業が伴うものだから、そこに思考の痕跡がないものは意味がないのであって、不偏不党や客観主義の立場は構造的に無理があるとの認識を示された。したがって、そこで担保すべきものは、送り手と受け手との間での相互批評の関係を保証することである。こうした前提に立って、桜井氏はおもにNHKのドキュメンタリー番組を検証することで、1950年代後半から今日に至るまでのドキュメンタリー番組における戦争の描写や言説の特徴を指摘された。 強烈なテレビ体験だったというドラマ『私は貝になりたい』(1958年)は戦後民主主義の良心的な番組とされるが、その視点は被害者の意識しかみられず、当時から国民的規模での戦争犯罪の記憶の浄化がなされていた。ドキュメンタリー番組にも同様の状況がみられ、例えば「モンテンルパへの追憶」(『日本の素顔』1959年)は、戦場の現実や戦犯の理由にはまったく触れず、BC級戦犯の無罪説や助命嘆願運動の広がりと符合していた。1960年代後半までのドキュメンタリー番組は総じて叙述的・時事的で、混血児や靖国神社がテーマとなっても、「なぜ」という問いは発せられず、問題の理由や背景は語られることがなく、社会の外的条件は言説として捨象される傾向にあった。

 1960年代後半から『ある人生』など、市井の人びとの内面を切り取る手法を用いた、歴史認識をもったドキュメンタリー番組が登場してきた。例えば「和賀郡和賀町〜1967年・夏〜」(『ドキュメンタリー』1967年)のように、タイトルに明示されてはいないが、番組での個々の取材やインタビューを重ね合わせることで、人びとの記憶から戦場の出来事を再現し、日本人にとっての戦争体験を浮かび上がらせることを意図したドキュメンタリーの文体が用いられるようになった。その後、「キャロル」(1973年)のお蔵入りに象徴されるように、遊撃的であったにせよ、ある種の権威や権力とぶつかり合う瞬間を記録したドキュメンタリー番組は姿を消していった。

 時を経て1990年前後には、冷戦構造が終わり、過去の資料と戦争体験の証言とが結びつく最後の機会が訪れ、戦争に関するドキュメンタリーはその恩恵を受けた。1995年から1990年代後半になると、教科書問題を端緒としてアジアにたいする加害責任を問う番組への風当たりが強くなり、戦争のテーマは総合テレビから教育テレビに場を移して制作・放映が進められた。一連の従軍慰安婦問題の番組では、さまざまな角度から取材し、場所と言葉に徹底的にこだわり、ある種の表象の限界を記録することを意識的に行ったという。しかしながら、NHKの番組のナラティブ(語り)は今日も初期のものと何ら変わっておらず、そこには他者への痛みの著しい欠如がみられ、責任意識の形成に向かわないモノローグに終始している点を、桜井氏は最後に指摘された。

 ついで佐藤卓巳氏からは、「敗者は映像をもつことができない」(大島渚氏)との立場にたって「映像の権力性」について言及された。例えば1945年8月15日の「土下座して玉音放送を聴く国民の姿」の記憶が示すように、戦争の映像は事実の再現に転用されたり、一部で捏造されたりする可能性をもつものだから、映像から距離を置く姿勢が必要であり、ドキュメンタリーの制作者にあっても、敗者の視線では映像を撮ることができない、という自らの立ち位置の自覚が必要であるとの指摘があった。また金山勉氏からは、ドキュメンタリーの番組制作と社会科学的研究の方法の類似性に触れたうえで、「映像の権力性」と関連して「ドキュガンダ」について言及された。「ドキュガンダ」とはドキュメンタリーとプロパガンダを合わせた造語であり、例えばマイケル・ムーア氏の『華氏911』のように、制作者の立場・主張にそって製作されたニューウェーブのドキュメンタリー映画を指すものであるが、今後のテレビ・映像環境の変化をふまえると、ドキュメンタリー制作を志す人々のすぐれた番組・作品への期待とともに、より高いレベルのメディアリテラシーが要求される時代に入ってきていることが紹介された。

 その後にいくつかの論点について議論がなされた。桜井氏はドキュメンタリー番組のもつ「映像の権力性」よりも、むしろ番組を制作・編成・放映する組織がもつ「メディアの権力性」について言及された。佐藤氏は、議論されている「権力」レベルの違いや「権力」に対する世代差に触れたうえで、現実を切り取る行為そのものがもつ権力性への制作者の自覚を強調された。参加者からも、制作者の自意識によって番組制作の過程のなかで「敗者が映像をもつこと」の可能性や、ドキュメンタリー番組の作為性やパターン化された言説に「権力」を意識する世代の存在などについて意見が出された。全体を通じて、ドキュメンタリーの記録と記憶にかかわる人びとのメディアリテラシーを育むためにも、制作者がドキュメンタリーの方法を学ぶためにも、番組アーカイブスの公開の必要性が強く意識された研究会でもあった。
(記録執筆:吉岡 至)